5年前に書いた日記をたまたま見つけて(笑)
誰かの気づきになればと思って書いています😃
以前、お客様からこんな連絡がありました。
「まだ○○が痛いです」
その言葉を見た瞬間、私の中に出てきたのは、
「なんとかしてあげないといけない」
「私がもっと努力しないと」
という気持ちでした。
でも、ふと立ち止まってみたんです。
お客様はただ、
「まだ痛いです」
と伝えてくださっただけ。
「あなたのせいです」と言われたわけでも、
「なんとかしてください」と責められたわけでもありません。
それなのに私は、相手の状態を自分の責任として引き受けようとしていました。
そこで気づきました。
私は昔から、誰かが苦しんでいると
「私がなんとかしなきゃ」
と思いやすかったのかもしれない、と。
振り返ってみると、子どもの頃から私は、周りの大人の様子や家の中の空気をよく気にしていました。
誰かが疲れている。
誰かが困っている。
なんとなく家の空気が重い。
子どもの私に何かできるわけではないのに、その状態を敏感に感じ取っていたんだと思います。
大人になった今なら、
「大人には大人の事情があったんだろうな」
と分かります。
でも、子どもの私にはそんなことは分かりません。
ただ、
「周りが大丈夫じゃないと、自分も安心できない」
そんな経験を繰り返すうちに、
いつの間にか
「相手が大丈夫なら、私も安心できる」
という感覚を身につけていったのかもしれません。
だから大人になってからも、
誰かが困っていると落ち着かない。
相手が不機嫌だと、
「私が何かしたのかな」と思う。
誰かが苦しんでいると、なんとかしてあげたくなる。
そして、うまくいかないと、
「私がもっと頑張らないと」
と自分を責めてしまう。
でも今回、ひとつ大切なことに気づきました。
「相手を大切にすること」と、
「相手の課題を自分の責任にすること」は違う。
もちろん、目の前の人に対して、自分にできることはしたい。
整体師なら、お客様のお話を聞き、身体をみて、今できる施術を考える。
家族や大切な人なら、話を聞いたり、必要な時には力になったりする。
でも、
その人の身体も、
その人の感情も、
その人の人生も、
すべてを私が背負うことはできません。
「私は私にできることをする。
でも、ここから先は相手の領域」
そうやって境界線を持つことは、決して冷たいことではないのだと思います。
むしろ、相手を一人の人として尊重することでもあるのかもしれません。
そして、もうひとつ。
私はずっと、
「安心したかった」
んだと思います。
相手が元気になったら安心できる。
相手が機嫌よくしてくれたら安心できる。
仕事がうまくいったら安心できる。
誰かに愛されたら安心できる。
ずっと、外側が整うことで自分を安心させようとしていました。
でも、本当は逆なのかもしれません。
「外側がまだ整っていなくても、私は安心していていい」
誰かが困っていても、私は私の場所にいていい。
誰かの機嫌が悪くても、それをすべて自分の責任にしなくていい。
誰かの痛みが残っていても、できることをした自分まで否定しなくていい。
もし、
「なんとかしなきゃ」
「もっと頑張らなきゃ」
という気持ちが出てきたら、
「これは本当に私の課題かな?」
と、一度立ち止まってみる。
そして、
「私は今、この人を助けたいのかな?」
それとも、
「この人をなんとかすることで、私が安心したいのかな?」
と自分に聞いてみる。
その違いに気づくだけでも、今まで無意識に背負っていたものを少しずつ下ろせるのかもしれません。
誰かを大切にしながら、
自分の安心も大切にする。
「相手が大丈夫じゃない時でも私は安心してていい」
私自身、この事を何度も思い出して、自分と他人との境界線を引けるようになっていきました。
自分と他人との境界線が曖昧になると、まるで自分が透明人間にでもなったように感じて…。
必要とされているか、愛されているかを確認したくなるのだと思います。
この状態は本人が一番苦しいです。少しずつ安心したかった私を受け入れていかれると良いかなって思います。